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by nn_77
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カテゴリ:生き方( 4 )

Unplugged

いくつかの心の課題の中のひとつが、相手からの評価に依存しすぎることだ。

上司面を止めよう、という昨日の投稿も、結局は部下がどう思うかを考えているようで、結局は、部下にどう思われたいか、という発想なんだと思う。
まだまだ自分勝手だ。

自分を苦しめているのは自分の身勝手な不安解消欲求だと、よく理解しているのに、出口戦略が見つけられていない。

引き続きいろいろ試して試行錯誤していこう。

以下は、その案。

1. 相手に声をかけられるのを待つのではなく、相手の反応を恐れず声をかけよう。

      声をかけてつれなくされるのは傷つくもの。だからといって声がかかるのを待っていては、受け身すぎて、それはそれで不安が募るばかり。

      タイミング悪くて素っ気なくされるのは日々のコミュニケーションや人間関係で当たり前のこと、と思おう。


2. 相手を好きになって、見返りを求めずに接しよう

        相手に好かれたければ、嫌われるのを恐れずに自分から相手を好きになろう。
        Give and take、まずは自分がリスクをとって相手を好きにならないと。
 
        Give and takeだったら見返り求めてそうだけど(笑)


3. 自分の自己評価を相手に押し付けるのをやめて、相手の自分に対する評価を受け入れよう

         ここは重要。

         嫌われたくない、相手の評価に依存するマインドは相手に肯定されたいなにがしかの自己像が前提になってると思う。

         その自己像自体が妄想と知るべし。

        自分の声の録音を聴いたら恥ずかしいのと同じ。自分って、それほど、自分で思っているようなカッコイイ奴じゃないわけだ。

        だったらまずは自分がどんな人間なのかを周囲から教えてもらって知らないといけない。それが見つめるべき自己像なのだから。

        人に自分のことを教えてもらうって、人からの自分に対する評価に依存するのと同じ、って思いがちだけど実は大きく違うと思う。

        前述の通り、人からの評価に依存して傷ついて孤独になっている場合、実は人に聴く以前に自分の中に理想の自分像がすでにある。それと実際の周囲の反応とのギャップを恐れたり、それに苦しんだり、を、勝手にしているのだ。恐ろしい妄想の虜だ。薬物中毒と同じかも。合法な、酒、というクスリで妄想による不安から逃避しようとしていないか? 逃避が良くないのに、さらに逃げる対象が妄想となったらもう、救いようがない(笑)

        妄想から脱却するためにも、勇気を持って人に当たり、たとえ傷ついても、真実に触れて行かないと。

        白雪姫の悪い女王の鏡のように、自分を美しいと歪曲して伝える鏡の虜になっていてはいけないんだ。

        人と心から接して、勝手な自己像を押し付けずに、謙虚に人から自分を教えてもらうところからはじめたらいい。思い通りの反応が無くて辛くても、そこから謙虚に学ぶんだ。傷ついてナンボ、と思おう。


4. 人に教えを押し売りせず、人から学ぼう

         多分僕は、前述のビヘイビアがあるがゆえに、教えキャラで生きてきたんだと思う。人に知識を伝えると、評価してもらえるかな、尊敬してもらえるかな、 受け入れてもらえるかな、好かれるかな、って。

         でも、それもきっと妄想だったんだと思う。

         知識の押し売りほどウザいものはない。

         自分も他人のそれを見て嫌ほどそう感じてきたはずなのに、自分のことは見えてなかったんだ。
         
         恥ずかしい。

         人に教えるのをやめてみよう。

         ゴルフのスイング矯正のように最初は極端でもいいくらいだと思うので、聞かれても、知らないごめんというようにするくらいで丁度いいかも。今の自分は何でも答えようと必死になり過ぎだ。答えられなくて、ヒトが去っていくのが怖いんだね。寂しいんだね。
         
        でもまずは、答えられない自分を受け入れよう。それで本当に相手が去るのかどうかも妄想ではなく現実に確認しよう。去ることも多々あるだろうし傷つくだろう。
       
       でも、そうやって、どうせ傷つくなら、妄想ではなく事実に基づいて傷つこう。普通の鏡を見ないと。


上記4点を振り返ると、新入社員に戻ろうということだと思う。

もともと僕は小さな子供の頃から前述のような人間だったのが、社会人になってもそれが変わらず、また、なまじ、ある種のキャリアを積んだので、それを教える、押し売りする材料に使いながら、麻薬のように自分の自己像の妄想を心の中に造って来たんだろうなぁ。

映画のマトリックスの首の後ろのプラグが、今、抜けたのかもしれない(笑)

怖いけど、今日から、素直に外の世界とそこにいる人に
きちんと触れて、交わって、生きていこう。

     
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by nn_77 | 2018-06-14 06:01 | 生き方 | Comments(0)

上司ヅラ、ネタバレ

上司ヅラをしてリーダーシップを取ろうとしたり、管理しようとするのを辞めよう。

部下が自分であたって砕けて成長するのが一番いい。先生ヅラしてつきまとわれてエラそうに「ご教授」されてばかりでは、部下も息が詰まるだろう。

そうした形で管理職を演じようとするのは、結局、自分のエゴと自己満足にすぎない。
聞いてきたり、明らかに悩んでいたらアドバイスをしてあげるべきだが、そうでないなら我慢して口出しせず、グッと堪えるべきだ。

そこで口出しするのは、これから観る映画のネタバレするようなもの。

自分が先に観て知ってたら言いたいよね〜。
でもそんな知識ギャップの優越感からくる行為ほど、迷惑なものはないわけで。

自分はその映画を観たなら、まだそれを観てない後輩、部下には是非ご自身で観て堪能頂き、自分自身は卑しいネタバレでヒトの愉しみを奪うことなく、次の映画を観ればいい。



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by nn_77 | 2018-06-13 08:51 | 生き方 | Comments(0)

生きるということ

ぐるりと回って来た気がする。

この心境になるまで、どれだけ酒をあおってきたことか。

20代の頃から始めた飲酒、自分を慰めたいときや、自分が慰められたいときには、そのために呑んできた。

酒を呑むことの是非ではなく、自分を慰めたいとか、自分が慰められたいとかいう甘えの精神構造が不健康、不健全なのだと思う。それにアルコールが合わさって、よく言えば憂さ晴らしだけれど、実態は逃避だったんだと思う。

逃げられないものからの逃避願望なので、20年経っても進歩がなかった。トホホだ。

そこからどう逃げるかではなく、自分がどこに行きたいのか、しっかりとビジョンとゴールを持って生きていけばよかったのだ。逃げるための歩みも進むための歩みも移動には違いないが、、前にその方向に向かって歩んでいることには変わらないが、逃げているのと、前進しているのでは、そりゃあ、気分は180度違う。

人からの関心に依存して、それに餓えて、それを追いかけても、それは自分をそのまま受け入れてほしいというわがままで自分勝手な承認欲求に過ぎず、その欲求が満たされないことからの逃避に陥るだけだった。

昨日、バーでお店の人とそんな話をしていたら、見知らぬ常連客のSNG人の年配のおじさんに声をかけられて、ヒトから、若者からもっと学べ、と言われた。

謙虚なフリをするのではなく、心から謙虚になって周囲から学べ、と。

誰かに何かを伝えなければ、教えなければ、というのは「君のエゴ」だと。

確かにそうだ。そんなエゴがあるから、こんなに教えているのに、と、思ってしまう。結局自分は、承認という見返りを期待しているのだと思った。

面白くない芸人が観客に笑いを無理強いしたり、自虐ネタで同情をかおうとしているのに似ている。

甘えんな!っていうことかな。
居場所が欲しけりゃ腕を磨け、ということだ。

笑ってほしいのに笑ってくれない、ウケない、とクヨクヨしてその現状を相手(観客)に許してもらおうとするような情けないことはしないで、芸人だったら腕を磨いてネタとプレゼン力で勝負しろ、挑み続けろということなのかな、と最近思えるようになってきた。

それは相手を見下すことでもなく、相手に媚びることでもない。相手を尊敬することだと思う。

相手にへりくだって、丁寧にしすぎるくらいして受け入れてもらおうとするのは、一見、謙虚なようで実は相手を馬鹿にしている。(上辺ではなく実際的ところでの)価値のない自分を相手に押しつけているのだ。

年下に対して丁寧語で話すのも、その態度だけを対価に年下の相手に自分を受け入れさせる為であってはならない。
それをしてしまうと、年下にタメ口で話して年上ポジションを取るのと結局は同じこと。

そうではなく、年下に対しても丁寧語で話すのは、言語/会話で表面的に構成される自分に対する相手からの許容に依存しない(甘えない)で、自立した自分を保ち、相手をリスペクトする為でなければならないんだと思う。

自信を持て、というのは励ましや慰めの言葉ではない。
それは、甘えんな!、自分の足で立ってみせろ、という叱咤。

そうやって自分の足で立てたら、年下に対しても自然に丁寧語で話せるようになる。

抱っこしてもらおうとせず、ママチャリの後ろに幼児のように載せてもらおうとせず、自分の足でしっかりバランスをとって自転車をこがないと。

こう思えるまでにずいぶん年月をかけてしまった。
まだ間に合うかな?

いや、その質問自体がもう甘えだ。

間に合うかな?ではなく、間に合わせるんだ。

自分の責任で。

自分の責任で精神的に自立して進むことを「生きる」というんだろう。

生きよう、生きていこう。
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by nn_77 | 2018-06-05 08:45 | 生き方 | Comments(0)

戻ってきた

ひさしぶりにパソコンから投稿。

ここ2~3か月、仕事のことや人間関係のことなどでいろいろと悩み、酒量も増えたりしながら、いろいろとクヨクヨ考えていました。
しばらくなりをひそめていた、ブルーに陥りやすい昔からの性格がまた出てきたんですね。

それに気づくのにずいぶん時間がかかりましたが、2ヶ月くらい前にようやく気づいて、図書館でいろいろ心理学や精神分析の本を読んでみたりしてました。思えばこれって、大学時代によくやっていたことなんですよね。あの時もブルーでした。

うわぁ、あの時と同じ状態に陥っているのか~?とちょっと(というか、かなーり)焦りました。20年経って、自分はまったく成長していないじゃないか、とも思ったりして。

特に直近の1か月は相当やばかったです。それは、もう、毎晩独りで飲みに行ったりして。前々から独りで飲みに行くというか立ち寄ることは時々ありましたが、今回のそれはちょっと違いました。いやはや。。。

それが、ここにきて、少し復調してきました。(ホッとしてます)

キッカケは、島田紳助さんの下記の動画を久しぶりに見て、またそれをきっかけに同氏の昔の番組の動画をYou Tubeで見たことです。

https://www.youtube.com/watch?v=kvxx-ipdLyM

日本を離れてSNGにきてはや8年が過ぎ、その間、すっかり日本の民法バラエティ番組は見なくなっていました。

英語が好きだったこともあり、仕事にも没頭し、海外で外国語を使って専門業務に没頭する毎日を送る中で、昔は日本でTVでよく見ていたしゃべくりエネルギーをすっかり忘れてしまっていたなぁとあらためて思いながら、久しぶりに見た紳助さんの話しぶり、さんまさんの話しぶりなどをみて、「ああ、そうそう、これこれ」と、忘れていたものを思い出したように思いました。

ブルーな時の私は、結局は「かまってちゃん」なんですよね。おもえば、子供のころからきっとそうでした。そんな子でした。

落ち込んで、落ち込むそぶりを回りに見せて、同情を得ることで、存在意義に許しを得ようとする。
まさに自分は、基本、そんな人間として生きてきたな、そんな人間だったな、と思います。

落ち込んでいない時でも、自分自身の存在自体に自信がないから、他者に求める承認欲求のそれはそれは激しいこと。
だから優等生を頑張ったり、褒めてもらおうとしたり、誘ってもらおうとして逆にわざと離れたり。。。
周囲のヒトの引力に引かれていないと自立していられないようなメンタリティ。

ああ、面倒くさいやつですね。自分で自分をこうして記述していて思います。
なんて恐ろしいというか周りにとって迷惑な面倒くさい性格をしてるんだろう、と。
甘えですよね、周囲に対しての。

こんなキーワードでネットで検索していると、アダルトチルドレンとか、幸福論とか、ポジティブシンキングとか、Cognitive Behavioral Therapy(CBT)なんていうのに出くわします。

この3か月間、そういうのをぐるぐる見渡しては、「ああ、こうしてこんな情報をさまようって、大学時代もしていたなぁ。なんて自分は進歩がないんだろう、人は変わらないなぁ」なんて思っていました。

そこまで思えるように自分を客観視するところまで自力でこれただけでも、よくやった、とほめてやりたいわけですが、心の悩みが解決しない限りは、なかなかそうは思えません。

そんな私が紳助さんの動画やしゃべくりの動画をみていて、「あ、これかな」と思ったのは、「自分がどう思われたい」という思考ではなく、「相手の心をどう動かしたい」という思考になればいい、ということでした。

「自分がどう思われたい」というのと、「相手の心をどう動かしたい」というのって、考え方を間違えて「相手の心を動かして自分のことをこんな風に思ってほしい」としてしまうと、同じ失敗に陥ってしまいます。

そうではなく、ただ純粋に、相手の心に働きかけて、訴求して、伝えて、どこまで動かせるかを一生懸命、能動的に考えるんです。
そうすると、相手に自分のことをどう思ってほしい、なんていう受け身の発想が相対的に引き潮のように引いていきます。

相手に自分のことをどう思ってほしいというのは、網を張る漁業かもしれません。「同情」とか「承認・賞賛」という種類の魚が沢山かかってくれたらいいなぁ、なんて思いながら、周りから同情を得やすいような撒き餌を巻きながら、網にかかるのをただ待つ。情けないですね。

これに比べて、相手の心を動かそう、感動させよう、楽しませようと、それを追及する思考は、狩り・狩猟っぽいかもしれません。
槍や弓矢で積極的に相手にアプローチしていきます。しとめてやろう。捕ってやろう。逃がさないぞ、と。

会社でも、部下や後輩など周りの人に対して、相手の自主性を尊重するとか言っておきながら、そんな周囲の自分に対する評価をを甘え心で気にしすぎずにいられない、とってもダメな自分であったわけですが、これからは、そうではなくそんな周囲の人たちにどのように働きかけていってやろうか、という攻める(?)思いで、前向きかつポジティブに戦略的にコミュニケーションとっていこうかな、と思うようになれました。

自分がどう思われるか?って、結局、相手の目線で自分を見ようとして、かつそんな相手の視線がこうだったらいいなという妄想・願望に強く依拠する思考なんですよね。恋なんかをしたときって、一歩間違うとすぐにこんな思考になりますね。相手のことを好きというよりも、相手にも自分を好きになってほしい気持ちで苦しむ、あの感じに近いかな、と。

でも、そんな相手の目線に期待している妄想・願望の作り手は自分の脳なので、永遠にこの欲求は満たせないんですよね。SFのように相手の心に入り込めない限りは。相手の目に映る自分がこうあってほしいというその目線は既に自分の目線なので、自分自身で自分を認められない自分が相手に依拠するための承認欲求を満たす手段として、実は何処かに矛盾がある考え方なんだと思います。だから苦しい。

人の心に働きかけて、感動させよう、笑わせよう、楽しませよう、という道化は相手の心を動かすことそのこと自体を目的としているので、その結果、自分がどう思われるかは、気にしてないことはないとはいえ、二の次です。
nnさんすごいですね、好きですよ、と思われるのが一番の目的ではなく、何かの話やメッセージ、アイデアを伝えて、その内容が相手の心のツボを押すことが一番の目的。マッサージ師に近いでしょうか。そりゃあ、先生、いい腕してますね、好きですよ、といわれたくなくはないでしょうが、それ以前にまず、うまくツボを押してお客様を気持ちよくしてあげたい、と思うんだと思います。(結果的に好かれればさらに良し、程度)

なんだか、霧が晴れたような気がして、ふとこのブログのことを思い出し、今、こうして思いついていることを記録しようと思いました。
いろんな意味で、「ああ、戻ってきた」のかも、と思い、こうして筆を執りました。

朝の5時から書き始めて今は6時。ちょっと昔のCPA受験勉強していたころの早朝ブログを思い出しました。

ちょうど飲み会の予定もひと段落したので、上記のアプローチをうまく活用していけるようであれば、今度こそ、お酒も含めて生活習慣も見直していきたいな、と思います。

それでは、また。

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by nn_77 | 2018-05-29 06:59 | 生き方 | Comments(0)