記憶の構造
2007年 09月 18日
人の記憶とコンピューターの保存データの一番の違いは「連想」の有無だと思います。コンピューターのデータは、一度保存されれば、ずっと残りますが、そのひとつひとつは、独立した無機的存在にすぎません。
コンピューターのデータも互いに関連づけされてる、という意見もあるかもしれません。パソコンのファイル構成の樹形図(ディレクトリ構造)、このブログのタグ機能や、インターネットのハイパーリンク・・・
しかし、コンピューターにとっては、これらそれぞれのデータ自身が必然的に整理され、関連付けられているわけではありません。あくまでもコンピューターを操る人間が認知しやすいように、人間の視点で整理されているだけです。
一方、私たち人間の記憶は、いわば連想の渦が無数にあるようなものだと思います。だから、ひとつのキーワード、キーフレーズ、あるいはキーコンセプトから、ずらずらっと関連記憶が呼び起こされます。文字情報にかぎらず、音、映像、匂いから再生される記憶もあります。
確かに、人間の記憶は、コンピューターのデータほど長持ちはしない。でも、私たちが何かを思い出せないとき、それは、記憶自身が消去されたのではなく、キーを失ったか、そもそもキーを作らなかったかのいずれかだと思うのです。だって、人の記憶がパソコンのデータみたいにきれいに消えるなんて、考えにくいですもの。それができるなら、消したい記憶は沢山あるのですが(笑)
小学校の同級生の名前、私はほとんどみんな「忘れました」。
でも、何年かぶりに帰省して、昔を思うと、仲の良かった友達を思い出し、それがまた、キーとなって、他の友達を思い出したりもします。こうした連想は、私が当時、意識的に記憶を整理して関連付けしたのではありません。無意識のうちにそうしたか、もっといえば、人間の記憶というものが、そうした「関連付け」無しには存在しえないものなのではないかとすら思えてきます。
丸暗記が覚えにくいのは、関連づけの対象がないからです。だから、歴史の年号は「鳴くよウグイス・・・」って情景との関連付けになるし、九九も、声にだして、音・リズムとの関連付けになってしまうのです。
これを利用して考えるなら、記憶の再生のコツは、いかに上手に、この「キー」を作るかになります。
膨大なノートやテキストをあとで自分で読み返してみても、ひどいときは「なんであのときこれが理解できたんや?」とさえ思ってしまうことがあります。かと思えば、付箋紙の少ない情報から、「あれはこういう話で、その背景にはこれがあって、それに関してはこのトピックも繋がりがあって・・・」と、どんどん発展させていくこともできます。
正しいキーと鍵穴を作っておくことができれば、どんどんドアが開いて記憶がでてくるし、キーを作っていないと、もう、何も出てこないんです。
そして、この「正しい」キーというのは、多分、本人にしか作れません。というのも、私が思うに、人の記憶、というのはコンピューターのデータみたいに、コピーして移していくことが出来るものではないからです。
例えばMSワードのファイルなんか、パスワードを設定して、他の人にEmailで送って、他人のPCで開くときも、同じパスワードで開けば、全く同じ内容の文書ファイルが開きます。でも、人間の記憶、人に口頭や文書、その他様々な伝達手段で伝えたとしても、相手の脳に移った段階で、それは相手の記憶になってしまい、元の情報とは、何かが違うはずです。
私は、冒頭で、「人間の記憶は、連想の渦が無数にあるようなものだ」と推論しました。この通りだとすれば、人間の記憶は、連想の連鎖によって形成されています。そして、連想の形というのは、ひとりひとりの実体験によって大きく異なります。
「リンゴ」という文字列で、あなたは何を連想しますか?
この3つのカタカナで、Googleの画像検索をしてみたら、こんな結果でした。
赤いリンゴ、青いリンゴ、半分に割ったリンゴ、お皿に乗ったリンゴ、木になったリンゴ、ひとつだけのリンゴ、複数のリンゴ、美空ひばり(赤いリンゴに唇よせて~♪という歌がある)、などなど
簡単な、「リンゴ」という言葉でも、無数の連想があります。多様な専門用語で資格試験のような内容を勉強したり、ましてやそれが外国語の試験だったりしたら、もう、大変ですね。
みんな、同じことを勉強しているはずなのに、ひとりひとりの頭の中で展開しているイメージは、きっと千差万別です。違う人が、同じ問題をみて、同じ解法を使って、同じ答を導いたとしても、それでも、それを思考している時、記憶を再生させているときのイメージ、ニュアンスはとても差があるものだと思います。
だから、ある人の記憶再生に必要なキー、そのベストな形をつくれるのは、連想する本人だけなのです。もちろん、人は応用力がありますから、人が作った「キー」を使って、自分の記憶の扉を開くことも出来るでしょう。しかし、必ずしも有効なケースばかりではありません。同じ復習の授業を聞いて、「ああ、それやったやった」と思う人もいれば、「え、そんなんやったっけ?」と思う人もいるわけです。
学校の先生の仕事は、できるだけ多くの生徒の記憶の扉を開くことの出来る万能キーをつくることです。それがまとめの板書になったりするわけです。しかし、人間一人一人連想の形が違う以上、万人にとって有効なキーを目指すと、一人一人の人にとっては、どこかが違うキーになってしまいます。
だから、この記憶の扉を開くキー、作れるのは、まさに自分だけ。
ある一定のまとまった事柄を記憶しておきたいとき、自分なら、どんなキーであれば、それをキッカケにして、ずるずると記憶の連鎖を引き出していくことができるのか、自己分析の世界です。
自分がその事柄についての記憶の再生をするのに一番有効なキーは何か?を自分で発見できれば、きっと素晴らしいノート・メモになるはずです。
だから、思うんです。
どんなノート作りをするのか、どんなメモを取るのか、それはやっぱり、ひとそれぞれなんだろうな、って。