生きるということ
2018年 06月 05日
この心境になるまで、どれだけ酒をあおってきたことか。
20代の頃から始めた飲酒、自分を慰めたいときや、自分が慰められたいときには、そのために呑んできた。
酒を呑むことの是非ではなく、自分を慰めたいとか、自分が慰められたいとかいう甘えの精神構造が不健康、不健全なのだと思う。それにアルコールが合わさって、よく言えば憂さ晴らしだけれど、実態は逃避だったんだと思う。
逃げられないものからの逃避願望なので、20年経っても進歩がなかった。トホホだ。
そこからどう逃げるかではなく、自分がどこに行きたいのか、しっかりとビジョンとゴールを持って生きていけばよかったのだ。逃げるための歩みも進むための歩みも移動には違いないが、、前にその方向に向かって歩んでいることには変わらないが、逃げているのと、前進しているのでは、そりゃあ、気分は180度違う。
人からの関心に依存して、それに餓えて、それを追いかけても、それは自分をそのまま受け入れてほしいというわがままで自分勝手な承認欲求に過ぎず、その欲求が満たされないことからの逃避に陥るだけだった。
昨日、バーでお店の人とそんな話をしていたら、見知らぬ常連客のSNG人の年配のおじさんに声をかけられて、ヒトから、若者からもっと学べ、と言われた。
謙虚なフリをするのではなく、心から謙虚になって周囲から学べ、と。
誰かに何かを伝えなければ、教えなければ、というのは「君のエゴ」だと。
確かにそうだ。そんなエゴがあるから、こんなに教えているのに、と、思ってしまう。結局自分は、承認という見返りを期待しているのだと思った。
面白くない芸人が観客に笑いを無理強いしたり、自虐ネタで同情をかおうとしているのに似ている。
甘えんな!っていうことかな。
居場所が欲しけりゃ腕を磨け、ということだ。
笑ってほしいのに笑ってくれない、ウケない、とクヨクヨしてその現状を相手(観客)に許してもらおうとするような情けないことはしないで、芸人だったら腕を磨いてネタとプレゼン力で勝負しろ、挑み続けろということなのかな、と最近思えるようになってきた。
それは相手を見下すことでもなく、相手に媚びることでもない。相手を尊敬することだと思う。
相手にへりくだって、丁寧にしすぎるくらいして受け入れてもらおうとするのは、一見、謙虚なようで実は相手を馬鹿にしている。(上辺ではなく実際的ところでの)価値のない自分を相手に押しつけているのだ。
年下に対して丁寧語で話すのも、その態度だけを対価に年下の相手に自分を受け入れさせる為であってはならない。
それをしてしまうと、年下にタメ口で話して年上ポジションを取るのと結局は同じこと。
そうではなく、年下に対しても丁寧語で話すのは、言語/会話で表面的に構成される自分に対する相手からの許容に依存しない(甘えない)で、自立した自分を保ち、相手をリスペクトする為でなければならないんだと思う。
自信を持て、というのは励ましや慰めの言葉ではない。
それは、甘えんな!、自分の足で立ってみせろ、という叱咤。
そうやって自分の足で立てたら、年下に対しても自然に丁寧語で話せるようになる。
抱っこしてもらおうとせず、ママチャリの後ろに幼児のように載せてもらおうとせず、自分の足でしっかりバランスをとって自転車をこがないと。
こう思えるまでにずいぶん年月をかけてしまった。
まだ間に合うかな?
いや、その質問自体がもう甘えだ。
間に合うかな?ではなく、間に合わせるんだ。
自分の責任で。
自分の責任で精神的に自立して進むことを「生きる」というんだろう。
生きよう、生きていこう。